曲の解釈と謡い方【三、三番目物】(8)

〈采女〉

大和(やまと)物語に、奈良の帝(みかど)の寵愛(ちょうあい)を受けた一女官(にょかん)が、その寵の衰えたのを恨んで猿沢(さるさわ)の池に身を沈めたとあるのに取材した曲であるが、前場でいとも哀傷(あいしょう)的にその物語を旅僧に訴えているのにかかわらず、後場で現れた采女(うねめ)の本体は、そうした怨恨(えんこん)などはけろりと忘れたように、ただその頃の采女の生活の花やかさを語ったり、歌舞に戯(たわむ)れたりするだけである。だからこの曲は、あまり深く考えずに、単に美しい三番目物、大小序ノ舞(だいしょうじょのまい)物としてはむしろ陽気な曲と心えて謡えばよいのではなかろうか。

〈楊貴妃〉

小野小町(おののこまち)か楊貴妃(ようきひ)かといわれる、その楊貴妃は小町よりも一段と品位(ひんい)の高い絶世の美人に相違ない。これを神仙(しんせん)の生まれ変わりとしたのは、一世に冠(かん)たる人物はみな神仙視するという中国思想の現れと思うが、この曲の解釈としては、あまりそれに捉(とら)われないで、単に古今東西(ここんとうざい)に絶(ぜっ)する美姫(びき)楊貴妃とだけに解(かい)しておいてよいと思う。この曲が一般の夢幻(むげん)曲と違って、幽霊が向こうから出張に及ぶのでなく、ワキのほうから蓬莱宮(ほうらいきゅう)へ訪ねて行くという点も、神仙なるが故(ゆえ)というようにむつかしく考えないで、ただそれだけの筋(すじ)と解しておいてよいと思う。

としてみれば、この曲は人間楊貴妃(ようきひ)の実に美しい恋の哀詩(あいし)である。詞章(ししょう)も極めて美しい。どこをどうということもなく、全篇(ぜんぺん)を三番目物の常識に従(したが)って謡って行き、その間に、艶麗(えんれい)に謡えば謡うほど気品が上がってくるようになれば、その謡はたいしたものだと思う。