※本文中、読みやすいよう適宜ルビをつけ、漢字を改めた。(編集部)
全部の曲を九種目に分けて、順にこれを述べるとまず最初は脇能すなわち一番目物である。神を描いた曲は他にもあるが、純粋の一番目以外の曲は脇能ではない。脇能は「神能」といったほうが内容がはっきりしてよいが、普通には「脇能」というから本書もこれに従っておくが、ときどき神能という言葉も用いるかもしれない。
脇能は能でも謡でもあまり喜ばれない。謡会でも敬遠されがちである。なぜかというと、神はあらゆる人間味を超越した清浄潔白なもので、人間のような劇や詩がないからである。
脇能はおもしろくないといっても、〈高砂〉が嫌いだという人はまずない。能を見ても謡で聞いても、あたかも明け方の太陽のごとき爽快晴朗な感がするのがこの曲であって、この趣は他の部類に求められない。脇能がすべて〈高砂〉のような傑作であったならば、決して敬遠されることはない筈である。脇能が嫌われるのは、あまりにも神様一点ばりで無味乾燥な内容の曲が多いからである。脇能は三十番ほどあるが、正直にいって佳作は数曲にすぎない。
脇能は神霊の来現を作ったものである。神はまず人間の姿を借りてワキの前に現われ、神の故事来歴などを語った後、ワキの心を慰めるために神体を現わして舞を舞うというのが脇能の定型であって、眼目はこの後場の舞にある。神の舞う舞は神舞をはじめ数種あるが、いずれもみな神の崇高荘厳な趣を持っているとともに、舞踊としてのおもしろさも具えている。ある種の曲では、主体の神のほかに天女が出たり竜神が現われたりして、大勢で舞うからすこぶる賑々しい。だから能で見る脇能は、素謡だけで考えているほどつまらないものではない。
脇能を初番に演じるのは、不浄を清め悪魔を払う儀式的の意味が多分にある。「翁附」といって脇能の前に〈翁〉(歌詞を神歌という)を演じると、いっそう慶祝の気分を引き立てる。〈翁〉は現在の能が出来るよりもずっと古く、平安朝後期に発生したものであって、「翁猿楽」または「式三番」と称せられた。これは実質的には能でなく、能の技術を以て演ぜられる神聖厳粛な儀式典礼のごときものであって、それが今日においても一般の能とまじって存続しているのである。