曲の解釈と謡い方【一、脇能】(11)

女神の類

―〈絵馬〉―
(西王母、呉服、右近)

この類は、女体の神が〔中ノ舞〕をまう曲であって、〈西王母〉〈呉服くれは〉〈右近〉〈絵馬〉がそれである。この種の女神が〈三輪〉や〈葛城〉のような三番目的情調を持つ女神と違う点は、前に〈賀茂〉でも言ったように、神性ばかりがあって人間性がないことである。もっとも前述の〈玉井〉の前シテのごときはいささか例外であるが、だいたいに於て人間性の有無ということが脇能の女神と三番目物の女神との区別になると思う。

この類は、神といえども女性は女性であるから、それだけ曲趣に柔らか味もあれば(うるお)いもある。舞が優美な〔中ノ舞〕になっているのでも曲趣の一端が推知(すいち)される。しかし人間として描かれた面がすこしもないのだから、いくら美人であっても清く冷たく澄みきっていて、人間らしい肌触りがない。そこが脇能の脇能たるゆえんであるが、能としても謡としても何だか物足りない感がある。つまり脇能としては力が弱くて不徹底な(うら)みがあり、三番目的な幽玄の情緒を求むるにはあまりにも人間離れがしすぎている。けっきょく中途半端といった感を(まぬが)れないから、謡ってみてもあまりおもしろくない。

この類には、寿福(じゅふく)を祈るとか聖代を祝福するといった主題のほかに、桃とか桜とか色とりどりの(いろ)どりがあって曲趣は多少違うが、謡い方は大同小異であって、まず脇能ということを根底に置き、それを女神の曲らしく、また〔中ノ舞〕の曲らしく、清く爽やかに重っくれずにすらすらと謡えばよいと思う。むろん〔真ノ次第〕、〔真ノ一声〕で出る曲と、普通の〔次第〕、〔一声〕で出る曲との相違といったことも考慮に置くべきである。