新潮社より『能十番 新しい能の読み方』(いとうせいこう/ジェイ・ルービン)が刊行された。
本書は、月刊『新潮』で連載された日英現代語訳の「能十番」(高砂、忠度、経政(経正)、井筒、羽衣、邯鄲、善知鳥、藤戸、海人(海士)、山姥)をまとめたもの。能の詞章(シテ方は観世流、ワキ方は下掛宝生流)とともに現代語訳が掲載されている。
現代語訳をした いとうせいこう氏は、これまで小説、作詞、舞台、ラップなど多才な活動をおこなっており、古典芸能の分野でも『曽根崎心中』の現代語訳や、新作狂言『鏡冠者』の創作も手掛けている。
下掛宝生流の謡を稽古して10年が経つ氏に、今回の著書についてお話をうかがった。
好きになったら自分でやってみる
――能の世界にたどりついたきっかけを教えてください。
これまで人形浄瑠璃や歌舞伎などの民衆的な古典芸能が中心で、狂言は見ていたのですが、能は到達点であるというイメージもあって避けてきたんです。でも何かのきっかけで謡を聞いたら、それがとても心地良く、CDを買ってきて寝る前に必ず聞くようになりました。すると、何を謡っているのか気になって、『謡曲百番』(西野春雄校注、新日本古典文学大系、岩波書店)を愛読するようになっていったんです。
能は演劇ですから、実際の舞台は自分の都合の良い時間では進みませんが、本になると違うメディアになります。とにかく読みました。なぜひとつのシーンをあんなに長くやっているのか、なぜ舞がゆっくりなのか。舞の意味の向こう側を見る必要があります。
能以外の芸能での舞やダンスは当て振りで、その所作にはいちいち意味があって説明的です。説明に慣れてしまっていると、あのゆっくりとした能の舞はわからない。でも能を読むことから入ると、そうした抽象的なものがわかるようになります。
能が好きになると、今度は自分でやりたくなったんです。僕は好きになったものは自分でやりたくなる性質で、それでこれまでも浄瑠璃が好きになって習ったりしました。
能を習うなら、イベントで話を聞いて面白いと思っていた安田登さん(ワキ方下掛宝生流)だと決めていました。最初、安田さんは弟子を取っていなかったんですが、ある時、弟子を取ると聞いて、月に二回のお稽古が始まり今日に至っています。安田さんにはこの本のワキ方の詞章監修もしていただきました。
そうして少し能にはまってきた頃に、それまで面識はなかったのですが、宝生和英宗家に能の現代語訳を依頼されたんです。僕が能のことを何かに書いたからかもしれません。宗家には「心にすっとはいってくる訳を」とお願いされました。舞台横の紗幕に現代語訳を映したのですが、その時に英訳を担当されたのがジェイ・ルービンさんです。
一言入れるだけで読者はついていける
――この本の特徴を教えてください。
僕が読んでいる『謡曲集』の類は、頭注や脚注などで部分的に訳していても全部は訳していないですし、これまで能が訳されているものが何種類かありますが、ものすごく詳しく研究書的に訳されているか、飛躍して物語にしてしまっているもののどちらかが多かったと思います。
本来、謡本は演じる人のためのものなのに、読者のものと思われてしまっている部分もあります。謡本はト書きが書かれていないので、話の筋がわかりづらい。ト書きを足す、すなわちシテやワキの動きを補うだけでもすごくわかるようになります。
それに、能はシテの言葉なのにワキや地謡がその言葉を奪って謡っていく。シテが話しているのに、ワキがすでに知っているかのように話し始める、という不思議な現象がおこります。それは能の独特な劇作術ですが、音楽としては不思議なことではないんですよね。
舞台にいる人がみんなで作り上げるという感じは、他の芸能にはないことで、能の風通しの良さの部分だと思います。わかりづらいところは、例えば地謡の謡であっても「そして女は続ける」と一言入れるだけで、読んでいるほうはついていけます。
また、僕はラッパーの立場としても、韻を踏むということをこれまでも考えてきました。能にはたくさんの掛詞が出てきます。韻文を成り立たせるために、意味が飛んでしまうこともありますが、上手く意味と韻がくっつくような工夫をして、わかりやすくなるように、韻を踏むことにはこだわって訳しました。
訳していた時は楽しい時間
――実際に能を訳してみていかがでしたか。
訳すのは本当に楽しい作業でした。ある能の作品の作者が一人なのか、あるいは複数の人が関わっていたかもしれませんが、どこに力点を置いて作ったのか、この部分は苦労して作ったんじゃないか、とか作った人の気持ちに思いを馳せながら訳していました。
また、最初は世阿弥っぽいと思って訳していても、途中から世阿弥っぽさがなくなっていくこともあります。それは舞台を作る人、演者たちが変更していくということも結構あったのではないかと思います。僕は学生の頃にアングラ歌舞伎の裏方をやっていたことがあったんですが、演者の発言権に驚きました。その場でこうしたほうがいい、と演技を変えていくんです。これはジャズだと思いました。
コントの世界でも舞台に出ている人が、演出家と喧嘩してでも変えていこうとすることは結構あります。そういう作品は生き生きしていて楽しいです。逆に、近松作品を訳していた時は、役者は嫌がったんじゃないかと思うところがあって、その場合は近松のほうが役者より発言権が上だったのではないかと想像したりしました。
能を訳している時、このような目線を常に持っていました。作品は書いた人だけのものではなく、何百年も昔の人たちが、役者の目線でも作品を作り変えていて現在に至っているんだろうと思います。
能作者と英訳者とのコミュニケーション
――ジェイ・ルービンさんとの共著ということですね。
この本を作るにあたって、僕の現代語訳を英訳してくれているジェイ・ルービンさんとの出会いは大きかったと思います。ジェイさんは作家の村上春樹作品の翻訳者として知られる方ですが、アメリカにいたジェイさんは能を観るよりも、テキストとして能を読むことが普通だったそうで、先ほど話した宝生宗家の舞台の時に、すっかり意気投合しました。
読むと面白いという曲をジェイさんと出し合ったのですが、様々な曲が出ましたし比較的人気の曲が入ったと思います。主語がなければ成り立たない英語で、かつ能の世界に合うように、ジェイさんが上手く訳してくれたと思います。
僕は訳す時に何百年も昔の作者との間で、「この言葉はそのまま使いますよ」とか、「ここはこう訳させてもらいますよ」という感じでコミュニケーションをしている気分でした。それをさらにジェイさんに渡す、というコミュニケーションも面白かったです。
次世代に手渡したい本
――この本の装幀は和綴本と光悦謡本をイメージした、とても素晴らしいものですね。
僕は新潮社の函入りの本に憧れて物書きになったところもあります。この本は本棚に置いておきたいと思わせる本ですよね。そういう本は、最近本屋さんからすっかりなくなってしまいました。本とはこういうものだったんだ、と思い出させてくれるような装幀になりました。こんな綺麗な本になって幸せです。しかも、この定価(3,685円)に抑えたというのが驚きです。編集担当の足立真穂さんががんばってくれたと思います。僕も出版社にいましたからよくわかります。
この本は舞台を見ながらでも見ていただけますし、上演中にページをめくっても能楽堂でうるさくない(笑)。能の原作(詞章)、現代語訳、英語訳、各曲の解説がはいっているので、非常に多様性に富んでいますが、機能的にもできていると言えます。
先ほど僕の原稿をジェイさんに渡すコミュニケーションと言いましたが、僕らから読者に渡すということにもなりますし、装幀を含めてこの本自体を次世代に渡したい。そういう本になったと思います。(PR記事)
『能十番 新しい能の読み方』の詳細は新潮社ホームページへ。
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いとうせいこう
1961年東京都生まれ。作家、クリエイター。早稲田大学法学部卒業後、出版社の編集を経て、音楽や舞台、テレビなどの分野でも活躍。1988年、小説『ノーライフキング』でデビュー。1999年、『ボタニカル・ライフ』で第15回講談社エッセイ賞受賞。他の著書に『ワールズ・エンド・ガーデン』『解体屋外伝』『ゴドーは待たれながら』(戯曲)、『文芸漫談』(奥泉光との共著、文庫化にあたり『小説の聖典』と改題)、『BACK 2 BACK』(佐々木中との共著)など。2013年 3月に刊行した16年ぶりの小説『想像ラジオ』は第35回野間文芸新人賞を受賞するなど大きな反響を集めた。古典芸能に造詣が深く、『曽根崎心中』の現代語訳や文楽、狂言の創作も手掛けている。能については習って11年ほど。