二、修羅物(続)
後場は、ありし昔そのままの武将の姿を現わして戦いのさまを演じる場面である。修羅物には一、二の例外を除き舞というものがない。その代りにたいていの曲に〔翔〕があるが、これは修羅道の戦いのさまを象徴する短かい所作にすぎない。またクセは全部後場にあるが、このクセも舞グセというよりは随所に戦いのさまを演じる戦さ語りといったものが多い。かように修羅物の後場には舞踊の美しさがなく、徹頭徹尾武張った型を見せるものが多いが、これをもって勇壮活発とばかり解するのは未だ修羅物の真趣を味得したものではない。
この戦いは現実の戦いではなく、修羅の苦患であるから、表面の形は勇壮活発のように見えても、内面には絶えずそうした陰影がまつわっている。特に敗戦のやる瀬なさ、無念さといったものは舞台に暗い影を投げずにおかない。陰影のあるところには一脈の幽玄味が添う。そこで戦いもまた詩だということになる。
これを謡について言っても、修羅物の後場はテンポにいささかの弛緩もなく、キビキビと勇ましく謡うものとされているが、ただそれだけではホンの通りいっぺんの謡い方にすぎない。修羅物の後場はツヨ吟であり、脇能の後場もツヨ吟であるが、同じツヨ吟でも、脇能は晴朗爽快に、何の陰影もなく謡うべきであるが、修羅物は戦いの勇壮さを表現する底強い謡い方の中に、どこか陰影をおびしめるのである。それは謡の滋味ともいえれば幽玄味ともいえる。
