〈翁〉が脇能の前に演ぜられると、その脇能もまた儀式ばったように感ぜられるが、脇能は紛れもない能の一種であって、一曲の構成もシテの姿も他の夢幻曲と異なるところがない。神は人間ではないが、脇能に描かれた神は、人間と同じ姿をした神という一種の風格人である。この神の風格が全曲に動いて、それからかもし出される趣がすなわち脇能の曲趣といってよい。謡文に並べ立てられた神威顕揚、聖寿万歳、国土安穏、五穀成就といったような文句は、そうした思想の宣伝でも何でもなく、シテを動かすための歌詞にすぎない。
それでは脇能の情趣とはどんなものかというと、脇能にもいろいろな曲があるが、全体的にいうならば、〈高砂〉が代表しているように、すがすがと朗らかで、しかも神々しいといったのが脇能に共通の情趣である。謡っても舞っても神能の気分はいかにも清らかですがすがしい。この気分を昔から「祝言」といっている。
脇能の情趣は、三番目物のものの哀れとかさびといった情趣とはおよそ対蹠的である。三番目物を月や花の趣とすれば、脇能は正月元旦の気分といったものである。月や花の趣は能の描く最高の詩には相違ないが、元日の朝に神詣でしたときの気分にもこれとは全く違った一種の詩を感受する。そこを捉えたのが脇能である。能の舞歌は幽玄の情趣を表現する半面において、こうしたいわゆる祝言の趣にもすばらしい表現力を持っているのである。
脇能には必ず太鼓がはいる。神の舞う舞はすべて太鼓の舞である。また脇能の謡はほとんどみなツヨ吟である。この二つの特色も神能の何たるかを語っていると思う。太鼓は陽気で朗らかな音色を持った楽器であり、ツヨ吟はいわゆる祝言の声で、その素朴な旋律が瑞気に満ちた気分を表現するのに最も適しているからである。
脇能は三十番もあるから、曲趣の多少の相違からして何種かに細別することができる。脇能の内容は大同小異であるが、後シテの舞う舞の種別如何で全曲の曲趣が多少違うのである。〔神舞〕、〔真ノ序ノ舞〕、〔楽〕、〔舞働〕、〔中ノ舞〕の五種がそれであって、これによって分けると、極めて鮮やかな曲趣の類別が出来あがる。