後場は、三番目物といえども動的な趣が添わないと後場にならない。この曲の後シテの出から「三界無安の」云々の地までは、〈屋島〉で述べた広い意味の後シテの出であるから、三番目の情趣を裏切らぬかぎりそうとう動的に謡わねばならない。「この寺未だ建礼門院の御時(観世流では「この寺未だ上東門院の御時)」というコトバが前シテにも後シテにもあるが、前シテはどこまでも静寂に、後シテはどことなく気をかけてといったように、謡い口を全然変えてかからねばならない。「三界無安の」の地はいわゆる後場の初同であるから、三番目の情緒を失わぬ範囲においてすらりと動的に謡うべきであって、前場の初同の物静かなのとはまるで謡い口が違うのである。
[クセ]は三番目物では前場にある曲と後場にある曲とがある。前場の[クセ]はいわゆる居グセでシテが座ったままであり、この曲のような後場の[クセ]は舞グセであって、[クセ]で舞いながら〔序ノ舞〕にはいって行くわけであるから、[クセ]にも〔序ノ舞〕の情緒が宿っている。このことをよく弁えて品よく閑かに謡い出し、しかも舞グセらしく徐々に運びこんで行くべきである。
〔大小序ノ舞〕のあとは静寂な趣で終局するのが常法である。この曲は決して物寂しい曲ではないが、やはり三番目物らしい趣で、すらりと謡う中にしっとりした味を持たすべきである。
