曲の解釈と謡い方【三、三番目物】(4)

後場は、三番目物といえども動的な(おもむき)が添わないと後場にならない。この曲の後シテの出から「三界無安(さんがいむあん)の」云々の()までは、〈屋島(やしま)〉で述べた広い意味の後シテの出であるから、三番目の情趣を裏切らぬかぎりそうとう動的に謡わねばならない。「この寺(いま)建礼門院(けんれいもんいん)の御時(観世流では「この寺未だ上東門院の御時)」というコトバが前シテにも後シテにもあるが、前シテはどこまでも静寂に、後シテはどことなく気をかけてといったように、謡い口を全然変えてかからねばならない。「三界無安の」の地はいわゆる後場の初同(しょどう)であるから、三番目の情緒を失わぬ範囲においてすらりと動的に謡うべきであって、前場の初同の物静かなのとはまるで謡い口が違うのである。

[クセ]は三番目物では前場にある曲と後場にある曲とがある。前場の[クセ]はいわゆる()グセでシテが座ったままであり、この曲のような後場の[クセ]は(まい)グセであって、[クセ]で舞いながら〔序ノ舞(じょのまい)〕にはいって行くわけであるから、[クセ]にも〔序ノ舞〕の情緒が宿っている。このことをよく(わきま)えて品よく(しず)かに謡い出し、しかも舞グセらしく徐々に運びこんで行くべきである。

〔大小序ノ舞〕のあとは静寂な(おもむき)で終局するのが常法である。この曲は決して物寂しい曲ではないが、やはり三番目物らしい趣で、すらりと謡う中にしっとりした味を持たすべきである。