曲の解釈と謡い方【二、修羅物】(4)

平太の類(2)

―田村―

この曲も純然たる勝修羅ではあるが、内容は一般の修羅物と非常に違っている。まず第一には修羅の苦患くげんという構想が全くない。第二には場所が古戦場でない。第三には前場においては戦いについて一言も語られない。
頃は弥生のなかば、都清水寺の桜は今や満開である。そこへ美しい花守の童子(どうじ)が旅僧の前に現われ、清水寺の縁起を語ったり四囲の名所を教えたりした後に、桜月夜の春興(しゅんきょう)を二人でほしいままにするというのだから、普通の修羅物とは違って花やかな情趣に富んでいる。

前シテが愛らしい童子に化現したのは、田村麿(たむらまるが神にも近い気高い武人だからであって、それだけに曲趣の清らかさを思わねばならない。この童子には田村麿将軍の気品が宿っているべきは、一般の化身の場合と同様である。

後場は、これこそは何の陰影もない智勇(ちゆう)兼備の征夷大将軍の戦勝記録であるから、むしろ瑞気をたたえるくらいに颯爽明朗に謡うべきであるが、とかくそれが騒々そうぞうしく聞えるのはいけない。やはり声調を引きしめて滋味のある謡い口で謡わねばならぬ。