曲の解釈と謡い方【一、脇能】(4)

―養老―

親孝行の徳によって甘美な泉の水を授けられたという養老の滝に取材し、この滝の実地検分に来た勅使(ちょくし)の前に山神が現われて舞を奏し、泰平(たいへい)御代(みよ)(たた)えるというのだから、どこか詩趣をおびたところがある。晩春から初夏へかけて、いかにも素直で爽やかでよい曲である。
まずこの曲で最も異常なのは、前シテが神の化身ではなく、シテの老人とツレの男とが親孝行で有名な樵夫(きこり)父子という現在人であることである。その語るところは霊泉(れいせん)奇瑞(きずい)であり、聖代の讃美であるから普通の脇能と変らないが、現在人という心持を忘れてはならない。

またこの曲には〔クリ〕―〔サシ〕はあるが〔クセ〕がなく、〔ロンギ〕で〔中入(なかいり)〕しないで、そのあとに〔上歌〕があってそこで〔中入〕し、その〔上歌〕がまた〔待謡〕を兼ねていてワキの待謡が(はぶ)かれるといったように、構成に於ても一般の脇能とは非常に違うが、曲趣としてはまさしく神舞物であるから、謡い口はすべて〈高砂〉と変わらず、雄健清爽を旨として謡えばよいが、〈高砂〉と比べると曲の位がやや軽く、また〈高砂〉ほどに勢いこんでは謡わない。後場は舞の前後が〔大乗地(おおのりじ)〕になっているが、この〔大乗地〕はいかにも神舞の曲らしく晴朗で、かつ急調子によく乗って謡うべきである。