謡の参考書ベストセラーの著者、三宅秔一について

伯父 三宅秔一のこと

三宅秔一と妻の安 (写真提供 三宅恭氏)

秔一は、和歌山の旧藩士で、維新後、関西を中心に石鹸製造でそれなりの財をなした三宅八弥太の娘千種(みやけ ちぐさ=明治七年・1874年生まれ)と、そこに婿養子に入った楢太夫妻の長男として、明治二十三年(1890年)大阪に生まれた。その時、母千種は十六歳。当時としては、特段早い出産ではなかったかもしれないが、このことは、後に少なからぬ影響を残した。というのも、両親は大正二年(1913年)、秔一が二十四歳の時に離婚、その後六人の弟妹たちを含む母親の家の家督を相続、若き戸主としての責任を負わされ、言わば大家族の上に君臨する立場に立ったからである。

離婚の理由は、父楢太の遊興が過ぎたことによる。楢太は、妻に十人を越える子を産ませながら、根っからの遊び人、妻が父から受け継いだそれなりの財産を蕩尽するほどであった。ただ、一方でなかなかの趣味人で、興味深いのは、生まれた子供の命名に当たって、ほとんどすべての息子、娘の名前に「のぎ」偏を付けたことにも表れている。乃木将軍を敬していたのか、妻の「千種」の名を愛したのか、お蔭で「秔一」も、現代のワードプロセッサーでは簡単には出てこない(普通の機種でも、漢字蔵のなかにはあります)字であるため、人々に難儀をさせているし、次女(実質上は長女である私の母)は「千穂」で、母から「千」をもらった上に、禾偏も受け継いでいる。楢太の文字あるいは言葉への執着は人一倍らしく、離婚後新たな家を立てたとき、姓として、「全亘」(<まわたり>と読ませる)なる凝った姓を勝手に造っている。無論私は、写真以外で、この人に会ったことはない。

本来優秀だった秔一は、京都へ出て第三高等学校を卒業し、東京に下って、帝国大学法学部を優秀な成績で了え、高等官として逓信省に奉職する。同時に、趣味人であった父親の血を引いたのか、京都の学生時代から、観世流の能楽に没入したときく。

東京に来て、就職後、郊外(三鷹村)、玉川上水の畔に、千坪近い土地を求めて居を構えたが、すでに次女、三女を除く弟妹は、全て養子に出し、残された二人の娘(次女、三女)が家庭を持っても、母が自分の身近に置きたがったので、最終的には、秔一と母、そして大正五年に迎えた妻「安」(やす)、長男「正男」、長女「みち」の所帯と、長妹が結婚した家族(村上)、次妹が結婚した家族の三所帯で分け合い、三軒の緊密な隣組を構成した。秔一は、長男、そして母の家の戸主としての立場から、また当時の社会的地位からも、三所帯の総帥のような趣で、常に指導的立場を崩さなかった。

東京では、六世観世銕之丞(後の華雪かせつ)師と親交を結び、またその関係で、梅若家とも親しくなったようである。

そうした状況のなかで秔一は、時に舞台に立ち、実活動をする傍ら、次第に積み重ねてきた能に関する知見と経験を、書物に表現する方向に進んだ。私の覚えている伯父は、いつも和服、数寄屋風の凝った家の書斎で、文机の前に座って万年筆を走らせていた。

著作は、結構な数に上るが、彼の好きな言葉に「曲趣きょくしゅ」というのがある。今回改めてウェブ上で陽の目を見ることになった『謡い方百五十番』でも、この言葉は頻発されるが、秔一が常に留意していたのは、一つ一つの曲全体の性格と、その性格を充分に汲み取って謡い方に反映させなければならない、という点だった。ただ美声で、朗々と歌い上げるような謡は、彼がもっとも嫌ったものだった。特に、演能の場合には、演者の別(地方も含めて)あり、所作あり、装束あり、面あり、作り物あり、視覚的な要素に訴えることが出来るが、素謡ともなれば、頼るのは聴覚だけ。よほど「曲趣」を考えながら謡っていかなければ、のっぺらぼうの、イタリアのテノールのようなものになってしまう。

 私は、四歳のときからほぼ十年間、秔一から謡の手ほどきを受けたが、何せ子供ゆえ、曲趣の説明をしたところで、理解が届くはずはない。しかし、今でも、正月の謡会で『羽衣』の独吟を命じられたとき(小学五年生だったと思う)、お稽古で、シテの登場場面「のう……」を何度試みさせられたことか。今本書の『羽衣』の項を読むと、天人は「人間的な穢れなどは微塵もなく、清浄にして気高く、しかも花やかで麗らかな愛すべき存在」と書かれている。その趣きを「のう……」に出して欲しかったのだろうが、回のみ重ねて泣きたくなったころ、漸く「それだ、それでよい」と言われて、しかし本当に会得したのかどうかもはっきりせずに、不安なまま本番を迎えてしまった経験がある。

彼の能への、また謡への愛の一つの発露であろうか。(文 村上陽一郎)





村上陽一郎(むらかみ よういちろう)

昭和11(1936)年東京に生まれる。東京大学教養学部、大学院で、科学史・科学哲学・科学社会学を学ぶ。上智大学理工学部、東京大学教養学部、同先端科学技術研究センター、国際基督教大学、東京理科大学大学院などで、教育・研究に従事。ほかに北京人民大学、ウィーン工科大学などで、客員教授を務める、東洋英和女学院大学学長をもって現役を退く。著書多数。チェロの演奏でも知られる。