京都でご活躍されているシテ方観世流の林宗一郎師は、このたび林喜右衛門の名を襲名されました。
檜書店では、林喜右衛門家のことを中心にさまざまなお話をうかがいました。

林喜右衛門(はやし きえもん)
シテ方観世流。1979年生まれ。林喜右衛門家14世当主。父故13世林喜右衛門および26世観世宗家観世清和に師事。「鞍馬天狗」にて初舞台。2020年、重要無形文化財総合認定。
林喜右衛門という名前について
――2025年4月5日に「創始400年記念 14世林喜右衛門襲名能」を京都観世会館でされて、林宗一郎から、林喜右衛門(きえもん)というお名前を襲名されました。
まだ慣れないので、自分では林宗一郎です、と言ってしまうのですが、まわりの方々が「喜右衛門さん」と呼んでくださるので、おかげさまで徐々に慣れてきたところです。
喜右衛門という名は、私の中では〝祖父の名前〟という認識でした。祖父は私が生まれる6年前に亡くなり、会ったことはありません。
中学生になる頃、〝喜右衛門〟は家の名前なんだなと何となく理解して、そこからは父がいつその名になるのかな、と思っていました。でもなかなかなりませんでしたね(笑)。ようやく襲名したのは、父が還暦を迎える年でしたが、その時点で28年ほど喜右衛門不在の期間がありましたから、喜右衛門という名前は自分にとってなんだか夢の中の人のような、あまり身近ではない人の名前と思っていたところがあります。隠居の名でもないのですが、ちょっと遠い人の名前というような…。
8年前に父が亡くなりまして、そのあとコロナ禍となってしまいました。みなさまご存知のように能楽公演も激減し、急に時間ができたので、自宅にある過去の書物を整理しようと思い立ったんです。
家の書物に目を通していく中で、「ああ、この◯世の喜右衛門と自分は性格が似ているな」とか、過去の喜右衛門たちに、新たに出会ったような気がいたしました。
その中でも曾祖父の11世喜右衛門は、昭和元年に創始300年記念能を行っていたんです。今年は昭和100年で、2025年はちょうど400年を迎えるので、自分も11世にならって記念能をして、同時に襲名をさせていただこう、と思い至りました。
じつは300年記念能で11世が何の能をしていたのかわからないので、檜書店さんに調べていただけないかと思っているんですが(笑)。
(後日調べたら、「景清」のようでした/編集部)
林喜右衛門家について
ーー林喜右衛門家について、どのように始まったのかお伺いします。
寛永3年(1626)に起きた京都市内の大火で、かなりの書物が焼けてしまいましたが、10世喜右衛門が、養父である9世から家のことを聞いて書き残した書物が残っています。喜右衛門家の歴史を知る唯一の手立てです。そこに、寛永2年(1625)、喜右衛門という名を名乗って生業とした、という記述が残っております。
大火と同じ年に寛永行幸(徳川秀忠·家光が後水尾天皇を二条城にお招きしてもてなした)がありました。その時に行幸能があり、江戸から来た観世大夫が京都で演能の人員を集めました中に、農家の林九兵衛がいて、その次男坊が林喜右衛門と名乗った。それが喜右衛門家のはじまりです。
「右衛門」という名前は、偉い人から一字をもらって名乗ると言われている名ですから、喜右衛門もどなたかからいただいた名前かもしれません。
初世の父・林九兵衛は農家だと思っておりましたが、北海道の知り合いから連絡があって、中国にわたったところで消息を絶った林喜右衛門という本屋さんがいたらしい、と教えてくださったんです。
ちょうど二条城の東側の区画は、檜書店さんの始まりである山本長兵衛さん(檜書店の始祖)も含めて、本屋さんが多かった一角ですよね。インターネットで調べる中で林九兵衛という名があり、九兵衛は農家でなく本屋さんだったかもしれないという話も浮上しております。
ちなみに寛永行幸の場には伊達政宗公もおり、林喜右衛門家がお菓子の州浜(すはま)を献上し、政宗公からはお返しに、丸盆に載せたお箸と銀の玉をいただいて、それを家紋にした、という由緒も残っています。一般の家紋にはなく珍しいもので、襲名披露公演のパンフレットに詳細を掲載させていただきました。


3世からは記録が残っています。2世と3世とでは血縁関係があったのかどうかもわかりません。そうすると3世から始まったのではないか、と研究者の方に言われることもありますが、初世と2世の戒名(かいみょう)が残っているので、自分としては初世から始まっていると思っております。
3世の頃から、江戸の観世大夫の元へ修行に通うのが慣わしでした。3世は、当時の14世観世大夫、観世清親(きよちか)から、花押が入った立派な書状をもらっています。これは3世が父の50回忌にお許しいただいて謡った「関寺小町」が大変すばらしく、評判が江戸にまで漏れ聞こえたとお褒めのお言葉をいただいたものです。
それ以降、謡を専門とする家として、いわゆる通称「京観世・五軒家(ごけんや)」といわれる家として続いてきました。
また、5世の元には、画家の呉春(ごしゅん)が弟子として謡を習いに来ていたようです。呉春の「牡丹図」が残っていまして、それを襲名披露公演のパンフレットに用いています。

筆まめだった10世は様々な記録を残しています。明治維新・幕末頃の人で、このまま謡だけ続けていては食べていけないと思ったらしく、舞も生業としていこう、と舞をはじめました。11世は大正9年に「林定期能」を始めまして、そこから105年経つ現在も、年間で「林定期能」(2022年に「SHITE。」に改名)の公演を行っています。
――先ほどお話しにもありましたが、いわゆる「京観世・五軒家」について教えてください。
岩井七郎右衛門家、井上次郎右衛門家、林喜右衛門家、薗久兵衛家、浅野太左衛門家の五家をさして、素謡五軒家、あるいは京観世五軒家と呼びました。京都で謡によって生業を立て、いわゆる謡教室のようなものをひらいて門人を輩出していましたが、幕末に多くの家が途絶えてしまいます。
その京都の観世流の謡を、略して「京観世」と呼んでいました。昔は家ごとに特徴のある謡があり、それをみな楽しみにしていました。
京都市内では「謡講(うたいこう)」という集まりが頻繁にありました。相撲の番附表のような、毎月何日にどこで催されるかが表になっているものが、家にも残っています。林喜右衛門家は毎月12日でした。
その表を見ていますと「五軒家」と言っていますが、実際には五軒どころではなく20~30軒はあります。特に歴史が長い家を五軒家と言っていたんですね。かつては現在と違う五軒だったりもしています。

企画されている公演について
ーー喜右衛門先生は様々な企画公演をされていますが、特に90分で見られる「KYOTO de petit Noh(京都でプチ能)」のような、画期的な内容が多い印象です。
知らない方にもっと能を知っていただきたい、という想いの中で「petit Noh」の企画公演を始めました。これは京都だけでなく現在は東京でもしていますが、解説も含めて能を90分間で楽しんでいただくという、とてもコンパクトな公演です。
90分で能も解説も見せるのは、ある意味、無謀な挑戦だと思っています。また、果たして能にとって良いことをしているのかどうかもわかりません。お客様をわかったつもりにさせてしまっているのではないか、と。もしかしたら「petit Noh」だけ見て、もう能は見ないというお客様もいるかもしれない。そういった不安はいつもあります。
本当は能の深いところへどんどん進んできてほしい、この後も引き続き能を見ていただきたい、そのきっかけのつもりでやっているんですが、このサイズ感がいいというお客様もいて、非常に難しいですね。

ーー「petit Noh」の解説は非常に評判がいいですし、面白いといったお声も聞きます。
解説は、面白く見えるかもしれませんが、実はとても真面目に取り組んでいまして。かなりの打合せを重ねて内容を決めています。どう解説したら納得してもらえるかを常に考えています。
これらの活動はすべて、能が今に必要な芸能だと分かっていただきたいからです。今なんとかしないと、という危機感は常に持っています。
先ほど105年目とお話しした「林定期能」は、100周年以降、公演名に「SHITE。」と入れてイメージを刷新していますが、堅さは変わりません。定期能をはじめ、襲名公演のような、いわゆるきちんとした能の公演も行う。そういうふうに、公演ごとにそれぞれ少しずつ対象のお客様や取り組み方を変えていっています。

能は昔のものですが、今の時代にどういうメッセージで発信するのかは、今の能楽師が見つけないといけないと思っています。演者が、能の価値を時代に合わせて見出していく必要があります。何歳になったらこの曲に挑戦する、という自分主体のことは置いておいて、どうやったら観客のみなさまに楽しんでもらえるかを一番に考えています。
ーーお二人の娘さんが子方でご活躍中です。
長女の彩八子(あやこ)が中学2年生、次女の小梅(こうめ)が現在中学1年生です。二人ともずっと能舞台に立ってくれていますが、私からはやりなさいということは一切言っていないので、ありがたいなと思っています。
私自身も、父から能楽師の道をやらなあかんと言われたことは一度もありませんでしたし、東京へ修行に行くのも自分で決めました。娘二人にも自分で選んだ道を歩んでほしいと思っています。
襲名公演について
――京都公演はつつがなく終えられ、東京公演は7月5日に開催されます(東京公演の詳細はこちら)。また襲名公演はこの先、鳥取と岡山でも上演されます(鳥取公演10月5日、岡山公演10月12日)。
鳥取と岡山にもご縁があって稽古に行かせていただいているのですが、定期的な能の公演がない地域なんです。能舞台もないため、公演をする場合はホールに能舞台を作るしかありません。
せっかくお稽古を受けてくださる方がいるのに、と思いまして、稽古場を盛り上げるためにも、年1回は能を観てもらいたいなと思って、襲名公演もさせていただくことにしました。
演目はなるべくわかりやすいものをと思い、各公演で少し変えました。鳥取では「自然居士」、岡山では「景清」を出す予定です。
京都公演では「卒都婆小町」をさせていただきましたが、この曲は実はわかりやすいんじゃないかな、と思ったりました。自分の思い込みに拠らず、演目ごとの魅力はまだまだ検討の余地があると思います。ワークショップをするとか、身近な演目を選んだりして、知らない地域の方々にもっともっと能を知っていただきたいと思っています。
これからについて
これまでは、林宗一郎という名を知っていただきたい、自分の能を観ていただきたいと思ってきました。でも今後は、宗一郎のためではなく、林喜右衛門家のために活動していく必要があると思いました。それまでは言ってみれば宗一郎の個人的な活動だったんです。でもこの先にも手がかりとなるような、未来に残るような活動をしていこうと。
人生100年時代といわれますが、私は今45歳なので、人生の半分くらいになるでしょうか。では残りの半分をどうするか。今後は、やはり家のためや次世代のための活動に切り替えていきたいなと思ったのです。当主名を名乗り、能楽のために、林喜右衛門家のために、今後もたゆまず努力し活動を続けていきたいと思っています。

(2025.05.19)