鵜戸神宮にて復曲能「鵜羽」 クラウドファンディングで上演

5月4日、ゆかりの地である鵜戸神宮(宮崎県)にて、復曲能「鵜羽」が上演される。「鵜羽」は平成3年に大槻文藏師を中心に復曲され、以後、観世清和宗家はじめ、様々な演者により上演が重ねられている。

今回大槻能楽堂の協力で、神話の舞台とされる鵜戸神宮での上演が決定。神秘的な洞窟の中にある鵜戸神宮での上演に期待が高まる。

(以下は、鵜戸神宮宮司 黒岩昭彦氏寄稿)

「鵜羽」余話 ―異彩を放つ数奇な能―

足利義教の強権政治 

 京の石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうにてご神意を賜わり将軍職に就いた人に、室町幕府の第6代将軍足利義教がいます。「くじ引き」という神々に判断をゆだねる、ある意味においては究極の選択でしょう。5代将軍の義量よしかずが応永32年(1425)に急逝してしまい、法体のまま実権を握っていた父の4代将軍義持よしもちも後継者を指名せずに同35年(1428)にったからです。

 将軍職はしばらく空位となっていたのですが、還俗げんぞくし将軍についた義教は、有力大名を抑圧するなどの強権政治を断行しました。その粛清しゅくせいは公家にもおよんだようで、伏見宮貞成親王ふしみのさだふさしんのうは、その時代の恐怖政治を「踏薄氷時期」(『看聞御記』永享3年3月24日付)と述べ、また「山門事是非不可沙汰之由被仰。而煎物商人於路頭此事申間召捕。万人恐怖莫言々々」(『同』永享7年2月8日付)と記しています。「万人が恐怖しているが、そのことを言うなかれ」と、ヒソヒソ話している公家の緊張感が垣間見られます。

大覚寺義昭の出奔

 その足利義教の不興ふきょうを買った人物の1人に大覚寺義昭だいかくじぎしょうがいます。彼こそは義教と将軍の座を争った時の4人のうちの1人なのです。4人は何れも4代義持の弟であり3代義満の子です。それぞれ出家しており、義教は比叡山延暦寺の天台てんだい座主ざす「義円」で、義昭は大覚寺門跡の大僧正だいそうじょう「義昭」でした。

 永享えいきょう9年(1437)に義昭は義教との不和により出奔しゅっぽんしました。南北朝統一後も不穏な動きがあり幕府も安泰というわけではなかったのです。事実、鎌倉公方かまくらくぼう足利持氏が反幕府の動きを見せており、また義昭が門跡を務めていた大覚寺は南朝方であったことなどから、そのどちらかと結んで謀反むほんたくらんでいるのではないかと義教は疑ったのです。義昭は京都を脱出、各地を転々として日向国(宮崎県)に到着します。義昭をかくまったのは日向国島津在中郷(現・都城市)の鬼束久次と考えられています。都城歴史資料館に所蔵されている「大覚寺尊宥義昭僧正願文」は、その関連を証明してくれます。当時梅北に鎮座していた神柱宮かんばしらぐうへの願文で、「天下逆乱を鎮めた暁には社領を寄進する」と神明に誓っています。「天下逆乱」とはいうまでもなく、義教の強権政治を指していますが、これにより義昭が義教に替わって世の中を治めようとしていたことがわかるといいます。

 永享12年(1440)には遂に日向国櫛間くしま(現・串間市)にいることが幕府にわかり、その征討せいとうの命を受けた島津忠国によって攻められ、嘉吉かきつ元年4月4日(1441年)に同市の永徳寺にて自害して果てたのです。永徳寺には義昭の墓とされる石塔がひっそりとのこされています。将軍であったかもしれない男の壮絶な最期でした。辞世の句は、

  花はいかにつらき嵐と思ふらん

   つねにかはらぬ今年なれども

というもので、『義烈百人一首』にも選ばれています。

将軍暗殺

 ところが大覚寺義昭の討伐から僅か3か月後の嘉吉元年6月24日、播磨はりま備前びぜん美作みまさかを領する有力守護大名の赤松満祐みつすけが暴挙にでました。あろうことか将軍義教を暗殺したのです。

 将軍足利家と赤松家の関係は微妙でした。満祐より4代前にあたる赤松則村のりむらは、「建武の中興」の際に功績多大なものがありましたが、その恩賞をめぐり足利尊氏などと蜂起ほうき後醍醐天皇ごだいごてんのうの新政を短命で終わらせた武将です。つまり満祐にとっての足利家とは、祖先の功績あっての地位という強い思いがありました。

 その強い自負心が表出した事件がありました。すでに政権は5代目の義量に移ってはいたものの、引き続き実権を握っていた義持は、自分が寵愛ちょうあいする側近の赤松持貞もちさだ(満祐の又従兄弟またいとこ)に満祐所領の播磨国を与えようと画策したのです。怒った満祐は京都の屋敷を焼いて播磨に戻り、将軍相手の合戦準備にはいりました。この時は幸いにして事なきを得たものの、他家や赤松一族の宗家そうけより庶流を厚遇する将軍家に対し、すでに不信の念を抱いていたのです。

 義持の死後に将軍となったのが義教でしたが、記述した通りの強権ぶりで、有力大名(一色氏や土岐氏)の首を据えかえ、幕府の引き締めと将軍職の権威復活を確かなものにしようとしていました。そのやいばが次に自分に向けられるのではとの恐怖心が満祐を襲い、以前からのわだかまりと相俟あいまって、ついに行動に打って出たというのが真相に近いのではないでしょうか。結城合戦ゆうきかっせん(永享12年・1440)の戦勝祝いに能を献上したいとして義教を自宅に招き入れました。そして宴もたけなわの演舞鑑賞の最中に、赤松家家臣の安積行秀あさかゆきひでが乱入、義教の首をねたのです。これが有名な「嘉吉の乱」(嘉吉元年・1441)の一幕です。

義教暗殺と「鵜羽うのは

 さて、この将軍暗殺には余談があります。

 それは足利義教が鑑賞していた能楽が「鵜羽」という演目であった点です。この演目を手掛けたのは世阿弥でした。鵜戸神宮のご祭神・鸕鷀草葺不合尊うがやふきあえずのみことの誕生神話(『古事記』)がモチーフとなっていることはいうまでもありません。龍女となった豊玉姫とよたまひめが、「塩盈珠しおみつたま」と「塩乾珠しおふるたま」をかざし、潮の満ち引きを舞いながら表現するクライマックスは見事です。

 そして更に興味深いことに、義教は世阿弥親子を徹底的にうとんじており、世阿弥のおいにあたる音阿弥おんあみを重用したことです。世阿弥の息子の元雅もとまさは永享4年(1433)に伊勢国で客死(義教に暗殺されたという説あり)、2年後には義教により世阿弥自身も佐渡に流配るはいとなります。その義教が世阿弥の手掛けた「鵜羽」の鑑賞中に暗殺され、その演舞者は目をかけていた音阿弥であったというのだから因果いんががあります。

 作品の着想は、豊玉姫が自らの手で鸕鷀草葺不合尊を育てられなかった悔恨かいこんにこそあります。その悔いを恵心僧都えしんそうずに打ち明けることで救われるという「鵜羽」は、将軍暗殺という大事件に伴う因縁と、八幡神のご神意を汚す形ともなった人間の強欲ごうよくや強権政治への天罰という、作者自身が予想だにせぬ番外劇を付加する結果となってしまったのです。

 この将軍暗殺の史実などを知った徳川幕府第5代将軍・徳川綱吉つなよしはこれを嫌い、以後「鵜羽」は上演されなくなったのです。「生類憐しょうるいあわれみ」の政策を行った綱吉が禁じたことにもドラマがあります。

鵜戸神宮での上演

 この度、令和6年5月4日に鵜戸神宮境内けいだいにて能楽「鵜羽」の公演を企画いたしました。

 歴史的事件の最中に演じられていた能楽という意味においては、おどろおどろしいイメージが付きまといますが、それは後世のことで、室町から江戸初期までは大変人気があった作品でした。それ故に、平成3年に復曲され約300年ぶりに国立能楽堂にて上演されたのです。

 この数奇な運命を持つ「鵜羽」を、この演目の舞台となった鵜戸神宮にて演じていただくことに意義を見出したいのです。そして、世阿弥の流れを汲む観世流の、シテ方観世流能楽師・大槻文藏氏(人間国宝)のご協力のもと、大槻裕一氏が舞うことにも意味があります。

 世阿弥の意図した豊玉姫の心情を捉えたもののあわれに、意図せず生じた史実の織りなす無常観が新たに付加され、復曲後の「鵜羽」の情趣じょうしゅとなっています。そういう意味においては、幽玄美ゆうげんびだけでは捉えきれない、異彩いさいを放つ数奇な能といえるでしょう。

復曲能「鵜羽」は、海女(前シテ)、実は豊玉姫(後シテ)が主人公。

九州鵜戸の岩屋を見に旅立った恵心僧都(ワキ)の前に、海女たちが現れ、神代の昔を偲んでいる。そこにある仮屋は、片方は鵜の羽で葺いてあるが、もう一方は葺いていなかった。僧都がいわれを尋ねると、むかし山幸彦と結ばれた豊玉姫が、磯辺に仮屋を作って出産するが、屋根を鵜の羽で葺く途中で産まれたので、その子は鵜羽葺不合尊うのはふきあわせずのみことと名付けられたこと、今日が尊の誕生日なので、仮屋を作ったという話を聞く。海女たちは神代を讃え、さらに一人の海女が自分こそ豊玉姫とほのめかして姿を消す…。

世阿弥作の祝言能で、芸論『三道』にも「鵜羽」が女体の例曲として挙げられている。室町時代に上演されていたが、江戸時代に廃曲となった。

日時 5月4日(土)17:30〜20:00

会場 鵜戸神宮儀式殿前広場

チケット クラウドファンディングのサイトでご確認ください

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番組 素謡「神歌」大槻文藏/復曲能「鵜羽」大槻裕一/狂言「樋の酒」野村萬斎

お問合せ 鵜戸神宮 events@udojingu.or.jp