曲の解釈と謡い方【一、脇能】(2)

―高砂―

この曲は、前述のようにひとり脇能のみでなく、能全体の代表曲といってもよいくらいのものであるから、この曲で曲趣と謡い方を(しっ)かりと会得しておけばたいていの脇能は謡いこなせるわけである。

この曲は普通の脇能と違って、前シテの(じょう)が松の精ということになっているが、実際的解釈としてはやはり後シテ住吉明神の化身と考えてよい。現に喜多では「高砂住の江の神ここに相生(あいおい)の夫婦と現じ」とある。また前ツレが男でなく(うば)となっているのもすこぶる異例であるが、この昔から国民の間に親しまれた尉と姥が出るからこそ、舞台一ぱいに瑞気もただよえば、曲趣の上にも他の脇能に見られない柔らか味を添えるのである。

高砂(月岡耕魚『能楽図絵』/以下同)

その他前場の文章も堅苦しい神社の来歴といったものでなく、万木(ばんぼく)に秀れた松のめでたさを讃美するというのが主題だから、謡っていても(はなは)だ感じがよい。後場は型のごとく神が現われて舞をまうだけであるが、これまたつまらない御託宣(ごたくせん)(なら)べたりせず、優雅な文章を簡潔に連ねたところがすこぶるよい。