能楽の舞台には、さまざまなところに紐が使われている。装束の胸元や袖を飾る紐、刀もよく見ると紐がついている。ちょっと見えづらいが重要な道具である面も紐がなければ、つけることができない。それらの紐は、色や太さ、技法などに細かな決まりがあるため、専門の職人によって作られている。これが実に緻密なお仕事で、小さな紐にこんなに深い世界が広がっているのかと驚かされる。今回は、紐や房を製作している柏屋の江口裕之さんに話をうかがった。
糸から作られる紐や房が専門
柏屋の仕事場は、東京都東久留米市の静かな住宅街にある。小売りはしていないため店舗はなく、裕之さんご一家が暮らす住宅のなかの日当たりのよい和室が仕事場にあてられている。外からは鳥の鳴き声が聞こえる、のどかな環境。ここで妻の惠さんと二人で仕事をしている。
柏屋は江戸時代から続く紐の専門店。裕之さんの祖父にあたる甲之助さんが奉公していたが、独立後に廃業したため江口家が屋号を預かることになった。江口家としては裕之さんが三代目にあたる。仕事の内容は、能、狂言や歌舞伎、日本舞踊、寺院関係で、いずれも細かな決まり事が多い世界。技術だけでなく、そうした約束事の知識も大切に伝えられてきた。
具体的にどんなものを作っているのかを裕之さんにうかがうと
「言葉で定義するのが難しいのですが、糸から作られる衣裳付属品や小道具類の製作という感じでしょうかね。一般的には、組紐職人と呼ばれることが多いですが、紐にもいろいろ種類があり、それに加えて房、網状のものなど、さまざまな繊維製品を受注生産で作っています。必要に応じて、染めも行います」。
扱う素材は絹が多いそうだが、絹は空気が乾燥していると静電気が起こって糸がまとまらなくなるとのこと。そのため、できるだけエアコンを使わないようにしているそうだ。
では、能楽のどんなところに紐類が使われているのか整理してみよう。
○飾るためのもの
〔装束関係〕長絹の胸紐、袖の下につく露、狩衣の袖紐、山伏の胸や背につく丸い形をした梵天(写真3)、漁師などが着用する腰蓑など(※本誌「観世グラフ」舞台写真でも、長絹の紐などを確認することができる)。
〔小道具関係〕太刀の紐、数珠の紐・房、箱を飾る紐・房、漁師の持つ網など(写真4)。
○固定するためのもの
面をつけるための面紐、天冠や帽子、頭など頭にのせるものを固定する紐、唐織を着るときに腰紐として使う唐織紐など。
○舞台設備や作り物にまつわるもの
能舞台の揚幕の紐・房、道成寺の鐘の紐など。